■ いっしょにお茶を ■




 マリアン=フュステルが、メイド仲間の一人と玄関の掃除を終えてキッチンに向かうとそこにはすでに二人分の食事がそれぞれのワゴンの上に並べられていた。
「今日はヒューゴさまがいらっしゃるんですね」
 普段は留守がちのこの屋敷の主人のもとへと片方の分を運ぶのだろう担当のメイドに声をかけると、相手は気取ったような笑みをマリアンに向けた。
「そうよ。子守りと違って責任重大だわ」
 きょとんとするマリアンを尻目に、メイドは主人に届ける朝食の乗ったワゴンを押してしゃなりしゃなりとキッチンを出ていった。
「なあに、あれ」
 他のメイドたちがくすくすと笑いながら囁き交わす。
「ヒューゴさまは独身だもの。そういうことじゃない」
「やだあ、はしたない」
「ちょっと美人だからって、社員の方たちにちやほやされているから自惚れてるのよ」
「でも、きっと門前払いよ。給仕はレンブラントさんがするから」
「お食事係って言ったって運ぶだけなのにねえ」
 きゃらきゃらと笑いあうメイドたちに、コック長の注意が飛ぶ。それを受け流しながら、マリアンと仲の良い一人が言った。
「だから、気にしないでいってらっしゃいよ。あなたがリオンさまのお世話係を立派に務めているのは皆知っているんだから」
 彼女に言われて、さっきのメイドが子守りと言ったのはそういうことだったのかとマリアンはようやく納得した。
「そうそう、やっかんでいるのよ」
「リオンさま確かにまだお若いけど、ヒューゴさまからの信任が厚くて有望株だし、ルックスはいいし」
「だけど、あの子も無視されてたもんねー」
「それで、今度はヒューゴさまに乗り換えたわけね」
「あ、でも、マリアンがリオンさまに取り入ったなんて思ってないからね」
 同僚たちのマリアンに対する思いはありがたいが、その反面無責任でもあるおしゃべりに曖昧な笑顔で応じ、コック長の雷が本格的に響き渡る前にマリアンは自分の担当のワゴンを押した。



 オベロン社総帥ヒューゴ=ジルクリストの邸宅は、個人の屋敷というよりも会社の一部であり事務所のようである。多くの社員がひっきりなしに出入りし、彼らの昼食や商談に訪れた客人たちの世話するのはマリアンたちメイドの仕事だ。貴族など上流家庭に雇われて家事全般や下働きを負うのがメイドの仕事と定義するのなら、ヒューゴの屋敷に雇われているメイドたちは少し特殊だ。掃除や食事の世話などこなす仕事は変わらないが奉仕する対象が常に不特定多数の人間であるからで、どちらかというとホテルなどの従業員に近いかもしれない。それもこれも主人であるヒューゴが肉親や家族といったものを持たず、私人として寛ぐための家の維持に関心を持っていないようなところがあるからだ。
 大企業のトップでありながら、その一方で私生活においては寂しさすら感じさせるその態度の原因はかつて夫人と一人息子を立て続けに亡くしたという過去に寄るのだろうとマリアンは考えた。その情報源はメイドたちの間で公然と噂されるものだけに詳細も事実なのかも確認する術を持たないが、仕事一筋に打ち込む姿にはそういった事情が隠されているのだろうと、マリアンには十分納得できる理由だった。
 そのヒューゴが明らかに目をかけているのが、リオンという少年だった。少年と言ってもオベロン社のお抱え剣士として一人前の仕事を与えられこなしている。幼い頃に両親をなくし、ヒューゴに引き取られて剣士となるべく教育を受けた、というのが、簡単な生い立ちらしい。これもまたメイドたちの噂話から仕入れたものだ。マリアンがヒューゴ邸に雇われた他のメイドと違うのは、リオンの世話係という名目で不特定多数ではない仕える相手を持ったことである。
 つらつらと思いに耽りながら食堂に辿り着いた。ヒューゴは自身の部屋に併設された居間で食事をとるのが常だ。客人を招いた時は共に食堂を利用することもあるが、それはまた別にあり、社員用やマリアンたちメイド用などをいれて、食堂と称するだけでも複数あるそのうちのひとつである。比較的小さなその部屋を主に利用するのが、マリアンが直接世話をする主人だ。
 カーテンを開けて朝の光を部屋に取り入れ、食卓に花を飾るなどの下準備は既に済ませてある。毎朝ヒューゴの屋敷に届けられる大量の花の中から、マリアンはリオンの部屋に飾るものと朝食の席に飾るものを選んでそれぞれの花瓶に生けるのも日課だ。食卓に飾るものは華美にならずかといって貧素な印象を与えることもなく、朝の清々しさを届けるものでありたいと特に注意を払う。年頃の男の子の大半がそうであるようにリオンもまた花になど興味を向けることはないのだが、それでもいいのだ。花は誰に褒められることがなくても咲いて目にしたものの心を和ませる。その存在そのものが愛しいから。



 食器を並べ、お茶の準備を整え、万全の体制で待つマリアンのもとへ廊下から小波のように声が伝わってくる。メイドや朝早くからやってきたオベロン社員が丁寧に挨拶を交わす相手といえば限られてくる。それらが途切れてやがて扉が開かれて小柄な少年が食堂の戸口に姿を現した。
「おはようございます」
 マリアンが丁寧に腰を折って頭を下げると、少年は不機嫌に眉を寄せ、それから気がついたように背後を振り返った。まだ開かれたままの扉が食堂と廊下を繋いでいる。顔を上げたマリアンは少年の様子を見て心得たように微笑み、ゆっくりと歩み寄ると扉に手をかけた。静かに扉を閉めれば廊下の喧騒が遠ざかる。
 もちろん、マリアンの主人であるリオンが扉の開け閉めを自分で出来ないのではなく、それをすると使用人のすることがなくなってしまうというのが特権階級に生きる者たちの言い分でありルールだ。少なくとも人目の届くところではリオンは「リオンさま」であり、マリアンはメイドとしてふるまわなくてはならない。という建前も、マリアンがある時に「リオンくん」と呼んでからだいぶ崩れてはいるけれども。
「どうぞ、席に着いて」
 先ほどのかしこまった態度とはうってかわって砕けた調子で促せば、立ち尽くしたままの少年はやや躊躇った後に席に向かった。マリアンに背を向ける際に「おはよう」という小さな呟きを残して。
 席についた後、マリアンが給仕したスープをリオンは黙々と口に運んだ。以前に比べれば増したように思える彼の食欲にマリアンは目を細める。
「いい天気ね」
 会話の口実として天気の話を持ち出すのはごく一般的な手法だろう。要はきっかけでさえあればいいのだ。
「……そうだな」
 天気がどうであろうと自身には関係ない。そういう態度の少年の関心が、けれどマリアンの話に耳を傾けてくれる証拠を引き出せればいい。
「リオ……エミリオの今日の予定は?」
 まだ呼びなれない名前につかえながら、マリアンはそう尋ねた。少年の表情がいくぶん和らいだと思うのは気のせいではないだろう。
「ヒューゴさまのお供で登城する」
「そう。帰りはいつになるかしら」
「長引かなければ夕方には戻れると思う」
「それならお夕食はこっちね。厨房に伝えておくわ」
「……ああ」
 少し照れたようにマリアンから視線を外しながら、リオンは手を伸ばして籠からパンをとり、ちぎった。それが何を意味するのか、マリアンには生憎と判別がつかなかった。
「ねえ、エミリオ」
 普段は呼ばれない名を再度口にする。ふたりだけの時はそう呼んで欲しいと要求されて以来それを受け入れたマリアン自身からその理由を問いただしたことはないが、リオンとしてはただ要求するだけではばつが悪かったのか、エミリオとは実の両親が名づけた名前でヒューゴに引き取られた際に今の名前を与えられたのだとそう説明した。
 マリアンもこの年になればヒューゴの家が初めての働き口というわけではない。貴族や金持ちが自分の財産や領土の管理を任せられる言わば優秀な家来を得るのに幼い頃から育てて恩を与えるやり方があるのを知っている。リオンはマリアンたちと同じヒューゴに仕える立場でもいずれはずっと上の位置に立つ人間であり、だからこそ「リオンさま」なのだ。執事であるレンブラントはもっと具体的に「坊ちゃん」と呼ぶこともある。正式な養子でこそないが、家族も後継者もいないヒューゴに育てられたという事実が、メイドだけではなくオベロン社員にも一線を引かせる。
 だから、年若いというだけでなく周囲からも浮いてしまうのだ。雇い主の「お坊ちゃま」でもなく同僚でもない少年が仲間を得られない理由になる。
 エミリオと呼ばれていた少年が当時からヒューゴと面識があったかどうかは知らないが、幼い子供が知らない大人に囲まれて、おそらく親恋しさを断つためかもしれないが、両親からもらった名前すら取り上げられて育った姿を思うと胸が詰る。それは同情でしかないかもしれないが、彼の目線に立って考えようと思ったときからマリアンの心の一部である。だから、その時の想いのままに彼の気持ちに気づけるようにと願うのだ。
「なんだ?」
 いささかはにかんだような少年の問い返しを受けて、マリアンは勇気付けらたように尋ねる。
「ヒューゴさまと、お食事をされることってないの?」
 その質問に、リオンの紫色の瞳が丸くなった。マリアンは自分の顔が赤くなるのがわかった。
 私ってばまた変なこと聞いちゃったのかしら。このことを言ったらまた笑われるかしら―――。
 だが、リオンから返って来た答えに今度はマリアンが目を丸くする。
「……普段の食事というのは一人でするものじゃないのか……?」
「え……?」
「小さい頃から……いや、小さい頃のことはよく覚えてないが、少なくともヒューゴさまといっしょに食事をしたことはない。その、晩餐会などに招かれて同席したことはもちろんあるけど……」
「それ、だけ?」
「ああ。でも、人といっしょに食べるというのは肩が凝るぞ。なんだかんだと話し掛けられて気の利いた答えを返さなきゃいけないとか、テーブルマナーだとか……そういえば、テーブルマナーを教えた家庭教師がつんけんした女で……」
 いつになく饒舌に自分の経験を語るリオンに静かな笑みを返しながらマリアンは耳を傾けたが、その一方でせつなさを強くする。
 でも、顔に出してはいけない。一人で食事をするのが寂しいと考えるのはマリアンの感情だ。彼の立場に立って考えるのならば、きっと。
「それじゃあ、私が話し掛けるのは迷惑かしら?」
 一瞬、彼は戸惑いを顕わにしたがすぐに消した。
「そうだな。こんなにうるさいメイドは初めてだ。あれを食べろだの、残すなだの」
「まあ。でも、私は言うわよ。ちゃんと条件をのんだんですからね」
「だから、仕方なく食べてやってるんだ」
 お互いに譲らない意地を張った言い合いは、先に吹き出したマリアンの負けだろうか。でも、こんな風に負けるのなら悪くはない。
「お代わりはいかが?」
 笑いをようやくおさめたマリアンが尋ねると、リオンは少し考える様子を見せてから立ち上がった。
「エミリオ?」
 そのまま出ていくのかと不安に思ったマリアンの目の前で、今まで自分が腰掛けていた席の斜向かいの椅子を引いてこう言う。
「座れ」
「え?」
「誰かといっしょに食べるのならマリアンでもいいんだろ」
 マリアンは慌てて首をふった。
「だめよ、エミリオ」
「なぜ?」
「私はメイドだもの。使用人が主人といっしょに食卓を囲むなんて、聞いたことないわ」
 使用人に対し寛容な主人であればあるいはありえることかもしれない。けれど、マリアンには他の同じ仕事に従事している仲間たちへの手前もある。マリアンに対し、仕事に対する責任感と熱心さからリオンの心を開いたと正当に評価してくれる彼女たちを裏切ることは出来ない。リオンの世話係だからといって思い上がりたくはないのだ。
 決してリオンの気持ちが嬉しくないわけではなかったのだが、そう訴えると少年は傷ついたような表情でうな垂れた。
「……使用人というのなら僕も同じだ」
「エミリオ」
「だから、ヒューゴさまは僕といっしょに食事をされないんだ」
 マリアンは自分の迂闊さを呪った。そんな考え方を彼に教えたつもりはない。
 ヒューゴにしてみればそれはけじめなのかもしれない。けれど、実の親は既になく頼る場所を他に持たない少年にしてみれば理解することは難しくなくても、受け入れ難い事実だろう。
 この際、自分の体面などどうでもいい。マリアンは決断した。
「お茶だけならごいっしょするわ」
 テーブルを回り込み、リオンの引いてくれた椅子の前に立つ。
 目を瞬かせるリオンににっこりと微笑んだ。
「食事はもう済ませたの。だって、お腹を空かせたまま給仕に立つなんて拷問だわ。だけど、これ以上食べたら動けなくなってしまうから」
 仕事に差し支えるでしょ、と悪戯っぽく続ければリオンは頷いた。
「お茶だけでいい。だから……」
 マリアンを座らせながら、囁いた少年の声にそれも条件だろうかと問い返すのはやめた。
 これからも、いっしょにお茶を。
 それは密やかな約束。



 紳士たるもの何事もレディファーストを旨とすべし。
 テーブルマナーの他に教えられた上流社会のルールというのは、実にくだらない。扉を開けて女性を先に通すだとか、椅子を引いて座らせるだとか、もっとも愚かしいと思ったのはダンスだ。おしゃべりと砂糖菓子でできているような連中を相手に踊るだなんて!
 けれどそれも、敬意を抱くことのできる相手ならば自然と身体が動くものだと知った。マリアンのために椅子を引くことならまるで苦にならなかったように。だから、もし、この先も小さな願いがひとつずつ叶えられるとしたら、いつか。
 それは彼だけの密やかな夢。






(2005/01/10)







「エミリオとマリアン」のイラストを元に
小説を書いて下さいました…!
二人の会話やそれぞれの心情の変化を
心地よいテンポで構成されていて
読むたびに感嘆します
そして、二枚のイラストにも命を吹き込んで下さり
ありがとうございました!

inserted by FC2 system